オアシスからのニュースレター 2016.10

『放蕩息子、放蕩娘』

牧師  星野 弘治

親ごころ

自分のことを「わたしは放蕩息子で・・・」という人がいる。親にいろいろ苦労させ悲しい思いをさせてきたことをそのように表現しているのかも知れない。そんな放蕩息子、放蕩娘でもジッと帰りを待ち続けるのが親心、親の愛というものか。

9号では、前にも紹介したことがあるので説明なしに「放蕩息子のたとえ話」に触れた。

しかし、初めての方もおられたかも知れない。或いは、そんなことあったかなと思えだせない方もおられたかもしれない。

そこで10号では、今一度「放蕩息子のたとえ話」を取り上げ紹介してみたい。

 

たとえ話のあらすじ

たとえ話のあらすじは次の通り。

「ある人に息子がふたりあった。弟が父に『お父さん。私に財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたぬうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」

こうして何もかも使い果たした後で、何とその国に大飢饉が襲う。

食べることもままならぬ毎日。追い詰められた彼は、ついに我に返り、父の許に帰る決心をする。

帰って来た息子を遠くに認めた父親は走り寄って息子を抱きしめ喜んだ。そして、大きな祝宴をもうけたのだった。

 

このたとえ話を語られたわけ

イエス様は、日常茶飯事の出来事をたとえ話にして深い真理を語られる方。

イスラエルの国はせまい。そこで、当時若者たちは仕事を求め、あるいは一かく千金を夢見て外国に出かける例が少なくなかった。

しかし、現実はそう甘くはない。そんなよくある出来事をたとえ話にして、イエス様は一体何を告げようとしておられたのだろうか。

この世界は偶然にできたのではない。造り主が確かにおられる。この真理は再三触れてきた。この、世界を造られた造り主、天のお父様が私たちとの交わりを回復させようと遣わされたのがイエス・キリスト。

ですから、このたとえ話は造り主である天のお父様がどんなにあなたとの交わりの回復を望んでおられるかを伝えようと語られたもの。

 

死んでいたのが生き返った

たとえ話の最後で、父親が大祝宴をもうけてまでして帰って来た息子を喜んでいる。それは、息子が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」。

  途絶えていた交わりが回復したことをこんなにも喜んでおられる。命与え、この世に生まれさせて下さった天のお父様ならではのこと。この、命を与えて下さった方の許に帰るまでは人生はむなしく、本当の生きがい、本当の幸せはない

 

聖書の言葉

 

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

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